甘い旋律

1940年代のストーリー

サイ 音楽の名人 ヴィジャヤクマーリ女史

私たちの音楽の名人、サイは歌とバジャンがとても好きである。毎日、朝、夕にバジャンが歌われていた。クッションに座った私たちの「音楽の君主」をホールの中央にして、女性と男性は彼のそれぞれ一方の側に座った。彼が音楽が好きだと聞いていたので、私たちは自分たちで作曲した歌を幾つか持参していた。私の母ラーダンマは音楽に関する充分な知識を持っており、ヴィーナとハーモニウムの演奏をすることができた。彼女はまたとても上手に歌うことができた。この才能は私たちが神から得た恩恵だった。私の弟アマレンドラと私は、スワミの席の両側に座っていた。始めにスワミ、次に女性たち、そして男性たちが、特定の類の歌に偏ることなく様々な種類の歌を歌ったものだった。始めの頃、スワミが私たちにあの歌、この歌と、歌う歌を指定したとき、私たちがこれらの歌を知っているということを彼がどうして知ったのかと驚いたが、しかしそのうち私たちは、偏在する神にとっては世界に知らないものなどあり得ないのだ、ということを理解するようになった。私たちが歌っている間、サイ ムラリダーラ(スワミの別名)は両手に持ったシンバルで伴奏をしてくださった。その甘美な音楽、その神聖な音楽は、皆が我を忘れるほど、私たちを幸せにしたのだった。セーシャ サイ(スワミの別名)の知らない知識の分野はないのだ。「鳥は小さくとも、その声は力強い」という諺にもあるように、傍観者から見れば、ババは何も知らない、無邪気な青年に見えるかもしれないが、注意深く、近くで彼を観察すれば、彼らはスワミが蓮のような目をしており、その美しさは蓮の花びらを超えているということに気づくだろう。その睡蓮の目はすべてを虜にできるのだ。それらは最高の愛で満たされていた。その頃の若い時期にも、すべての彼の歌に偉大な霊的な意味が含まれていた。

カルマを無視できるのか、ああ人よ、カルマを無視できるのか。

富む者が一瞬にして貧困者になることがないと言えるだろうか?

学者がたちまち獣になり、

棒切れが蛇に変わり、あなたを噛みに来ることがないと言えるだろうか?

カルマが原因であり、カルマが源なのだ。

ポットを小さな池に浸そうが、大海に浸そうが、

ポットに入るだけの水しか入らない

望んでもそれ以上は入らない。

ー「カルマ」

彼はこの歌を美しい旋律にのせて歌ったものだ。落ち込んだ人がババを見れば、いつでもすぐに、まるで蓮の花が「パドマガルバ」つまり太陽を見た時のように、自らの苦難を忘れ、笑い声によって報われる。彼の愛らしさを見れば、「モウナム」(沈黙の誓い)を守る者も、ちょうど詩人が春の神、ヴァシャンタを見てそうするように、口を開いて語らずにはいられない。疑いに取り憑かれた不信心な者も、ババがその目の動きで命令を与えるのを見ていると、花の蜜を飲みに来る蜂のように、彼に慰めを求め、彼の最も慎ましいしもべとならずにはいられない。

歌は甘く、

歌う歌は甘く、

慰めは甘く、

御足は甘く、

心は甘い

(ギータム マドゥラム、ガナム マドゥラム、シャラナム マドゥラム、チャラナム マドゥラム、フルダヤム マドゥラム)

この歌に上手く謳われているように、サイに関するすべてのことは甘美なのだ。彼らは世界の支配者であり、その親愛なる小さなお腹の中に収まっている、世界のあらゆるものを支配することを楽しんでいるのだ。彼は比類なき知性を備えている。彼はすべてのヴェーダとヴェーダンタの化身である。彼は三界で最も偉大な音楽の学者である。もし彼が声を上げて歌い始めれば、人々はカッコウの歌のことは忘れ、彼の歌の旋律のとりこになり、愛の大海の波間に漂うだろう。愛によって感動を与えるその旋律は、波間でゆっくりと上昇し、ちょうどガンジス河のように堤防から溢れ出て押し寄せる。そして魔法の呪文をかけて全ての人々に喜びを与え、その甘い旋律に我を忘れさせるのだ。彼の全ての言葉、全ての遊び、全ての仕事は、喜びに満ちた美の園だったのだ。これは大げさな表現に思えるかもしれないが、私の言っていることは真実なのだ。それは体験すべき至福である。それはどんな言語の文字を使っても表現するには足りないのだ。


その頃のバジャンは現在のように30分ではなかった。それは何時間も続き、私たちは3時間でも4時間でも歌い続けたものだった。私たちは時が経つのも感じなかった。時の神でさえ、この「カーラ(時間)」の神の支配下で時間が進行するのに気付かずにいるようだった。バジャンの後に、私たちの神ご自身がココナッツを割り、アーラティを捧げ、皆のところまで運んで来たのだった。それを配っている間は、彼は次のような歌を歌ったものだった。

どんなに甘く美味しいことか。皆さん飲んでおしまいなさい

悪い考えは消え去り、良い考えが迎えられる

飲めば飲むほど、その人のカルマは減少する


こんな風に歌い、スワミは皆を至福に浸らせたものだ。


挽いたり、砕いたりして作られる薬ではなく、100枚の金貨が必要なものでもない

これは道を示す薬

それはサイの優しさで作られ、それのみが解脱をもたらし得る

それを見つけることはできず、それを買うこともできない

これは本物の薬

それを見つけて飲む者は

たちまち救われる

さあ、このサイの御名というプラサードを召し上がれ、

おいでなさい、帰依者たちよ

ヴェーダの神髄の小麦粉の中で、ヴェーダの格言のミルクをかき混ぜて、

これら2つを入れた大きな容器の中で、

我らがアディサイ(始まりを持たぬ者、サイ)がシュガーシロップを作ったのをごらんなさい

その変化に富む味は『サイ プラサード』

さあ、それはあらゆる病を取り除く

注意を払いなさい

そうすれば救われる

御者の役割はとても深淵だが

謙虚に信じる者にのみ理解できる

遠くまで行く必要はない

それはそこにたくさんある、まさにここ、

パルティに

サイよ!


スワミがこのように歌っている様子や、プラサードを配る様子は、とても心が安らぎ、ネクタリン(椿桃)の甘さに満ちているように見えた。

ヴィジャヤ クマーリ(ヴィジャヤンマ)女史著「アンニャター シャラナム ナースティー」より

(著者の承諾の許掲載しています。ヴィジャヤンマ女史に感謝申し上げます。サイラム)