プラシャーンティバジャングループのメインバジャンシンガーによる

トークセッション

Bro.ラヴィ クマール、Bro.アメイ デシュパンデ、Bro. シッダールタ ラジュ


シンプルなバジャンこそスワミを至福へ導く

Bro.ラヴィ クマール

私たちは時に、より複雑なバジャンを歌い始めるときがあって、難しいバジャンを歌う時にだけスワミが喜んで下さるのではないかと感じることがあります。でも実際は、それとは真逆のことを体験することになります。スワミの前にシンガーが座って、たった3,4行の短いバジャンを歌うと、それらがスワミの御前では最も至福に満ちたバジャンになります。例えば、オームシュリラーム ジャヤラーム ジェイジェイラームのようなバジャンです。オームシヴァーヤもそうです。それらのバジャンは大変大きな喜びを与えますね。あるいは他のバジャンにはスピードがゆっくりで瞑想するかのようなバジャンもあります。複雑さではなく、シンプルさというのは私たちを神につなげるためにとても大事な要素です。そして、ゴールである神が私たちの心にあるのであれば、間違いなくそれが私たちを神につなげてくれます。

人々を意識して歌うことは障害

Bro.アメイ デシュパンデ

もう一つのバジャンの障害は、私たちは自宅の祭壇の前で歌うよりも、人々が居るところで歌うことを好む傾向があることです。それは、私たちが神様のために歌いたいのではなくて、人々の中にいる神様に歌いたいと思うからです。ですから、そんな時は祭壇の方に向かって歌っている間も、自分の後ろにいる人々のことの方が気になるわけです。自分が歌っている間にあの人は自分のバジャンを聞いてどう思うだろうか?というようにです。サイ オーガニゼーションでは、バジャンの後はおしゃべりをしないようにということになっていますので、バジャンの後は静かなのですが、そこに誰かが来て、「ああ、あなたはとても美しく歌いましたね」などど、そう言って来る人がいると「ああ、これはスワミの恩寵だ」などと考えます。実際の所は誰かに「あなたはスーパースターですね」とでも言って誉めて欲しいのかもしれませんね。でも、おおスワミ!まったくもってこれは「私が歌っている」のでありません。私はたまたま今日、そのバジャンを皆に「伝えた」にすぎません。

そのように、時々私たちとスワミとの間には妨げがあります。実際には皆の前で歌うことも、自宅の祭壇で歌うことも、双方ともに歌の質においては本来変わらないはずです。そう在るはずの歌の質を変えてしまっているのは個々のフィーリング、感じ方なのです。

命そのものと思っていた楽器でさえも・・

サイバジャンにおいて、私はとても素晴らしい方のことを思い出します。Bro.カリアン チャウダリーというバジャンシンガーの方がいらっしゃいました。「ハリ バジャナ ビナ スカ シャーンティ ナヒ」は彼によって作曲されました。「マドゥワナ サンチャーリ シャーマ ムラリ」もです。それらのバジャンはスワミご自身がお歌いになりました。Bro.カリアン チャウダリーはカルカッタの出身で、スワミは学生たちに、

「カルカッタまで行ってBro.カリアンからバジャンについて学んでくるように」

とおっしゃいました。夏休みの間にです。そして、サイ大学のずっと上の先輩は実際にカルカッタまで習いに行ったそうです。しかし、彼の家は鍵がかかっていました。実際にはBro.カリアンは家の中にいました。Bro.カリアンは晩年は瞑想することに没頭していて、来客が来てもわかりませんでした。Bro.カリアンは日頃から奥さんに、「外に出てドアを閉めて、あなたが外でやるべきことをしていて下さい。私を邪魔しないようにして下さい」と言っていました。

しかし、サイの学生がドアをノックすると、家の中からBro.カリアンが「どなたですか?」とおっしゃられ、学生は応えました。

「かくかくしかじかで、私はプッタパルティから来ました。スワミがあなたに会うようにおっしゃったのです」

するとBro.カリアンは「わかりました。入って下さい」

と言ってドアを開けました。そして部屋に入って座りましたが、Bro.カリアンは

「どうしてスワミはわざわざそんなことをされるのだろう?」と言っていました。

「スワミはなぜあなたのような学生を私のような者のところへ送ってこられるのだろう?あなたはスワミと親しい方なのですか?」とBro.カリアンが尋ね、

「いえ、それはわかりません。おそらく、私はあなたから何かバジャンを習う必要があるのでしょう」と答えました。

「うーん、どんなバジャンを私が知っているというのでしょう?まあ、いいです。あなたはハーモニウムは使いますか?」

「どうして使わないということがあるでしょうか?」

「わかりました。では、この下にハーモニウムが並んでいる部屋がありますよ」

するとショッキングなことに、パイプがたくさん通っている埃だらけの部屋に使っていないハーモニウムがたくさん並んでいました。それは音楽家にとってはショッキングでした。なぜなら、ハーモニウムは私たちにとって命のようなものです。いつもハーモニウムの前に座ってバジャンを練習しているわけですから。学生はとても驚きました。それから彼はハーモニウムを部屋から出して運んで、ハーモニウムをBro.カリアンの前に置くと、

「先生、どうしてハーモニウムがこのような状態であったのかを私は理解できないでいるのですが…」と尋ねました。それに対してBro.カリアンはポイントを得た素晴らしい説明をされました。

「このような不要なものが私と神様との間にあるので、私はそれを取り除いたのです。私にはハーモニウムはもう必要ありません」

そのようにBro.カリアンは言いました。神に到達しようとするときには、神へと連れて行ってくれる道具でさえも不要になるのです。なぜなら、それは道具にすぎないからです。それをなくせば本当に神と私だけしかいなくなります。それが、私たちが最終的に到達しなければならない境地です。私と神の間においては、いずれハーモニウムといった楽器でさえも障害になります。ハーモニウムは今、私とスワミをつなぐ基盤のようなものですが、それは何か間違っているようなのです。実際は、私と神との間には何も媒介するものなどないのです。内的にも外的にもです。私と神との結びつきにおいては。


マイクもスキルも障害となり得る

Bro. シッダールタ ラジュ

それは、私たちが何に焦点を当てるべきかという話ですね。私たちがバジャングループに加わる以前のことですが、いつも集まって練習をしていて次のバジャンのオーディションに備えたり、バジャングループに加わることができるそのときを目指してとても情熱を持って取り組んでいました。私たちのフォーカスは、ただ1つ「バジャンを歌う」ということでした。今、プラシャーンティニラヤムの学生のコミュニティにおいてさえも、1つの指標は「アカンダバジャンの最初の1時間をしっかり歌える」ということになっています。また、すべての優れたサイのバジャンシンガーたちにとっての指標も同様に「アカンダバジャンの最初の1時間」なのです。そして、その1時間に歌っていることができなければ、シンガーのAリストには入れないわけです。BチームかCチームになります。すると、マイクのスイッチが切られた後で、「どうぞ前の方へ行って歌っていいですよ」などと言われます。そういうシンガーの一人にはなりたくないわけです。第一のリストのシンガーになりたいわけです。もしそれに選ばれると、名前のリストの下に下線が引かれるので分かります。そんなこともまた、私たちにとって障害になります。もし、私たちの目的が「(神様に向けて)バジャンを歌う」ことであるならば、マイクがそこにあってもなくてもまったく問題ではありません。このように、アカンダバジャンのときにはマイクが障害になっています。(*マンディールでのアカンダバジャンでは最初と最後の1時間だけマイクを使っていました。現在は最初と早朝と最後の約2時間だけマイクを使っています)

もう一つのことは技術的なことです。私たちはどのように技術的なことに溺れてしまうか?ということです。私たちは皆、音楽的にトレーニングされていますので、私たちの技術的な進歩をつい示したいと思うことがあります。それもまた障害になります。なぜならスワミは、もし帰依者を神の方へ連れて行く役割のあるシンガーが、技術的なことに埋没して、それによって人々が神ではなくそのシンガーを賞賛してしまうのであれば、その人はシンガー(singer,スィンガー)ではなくスィンナー(sinner,罪人)になってしまうと言われます。人々がバジャンにやって来るのは、スワミにつながるためです。ですから、人々がスワミにつながることができるような(純粋な)方法でバジャンを歌っていくことが私たちの責務なのです。そしてそれは、あなたのスキルとあなたがつながるためではないのです。

2020年11月8日のスタディーサークルチームによるオンライン スタディーサークルより引用。

動画はこちら(金沢グループのチャンネルより)