最高位のバジャン

歌うために歌わず

サティヤ サイは語るシリーズ 2

4種類のバジャン

サンキールタンやバジャンには四つの種類があります。それは、

「グナ サンキールタン」、

「リーラ サンキールタン」、

「バーヴァ サンキールタン」、

そして「ナーマ サンキールタン」です。

「グナ」とは「特質」という意味です。ですから、「グナ サンキールタン」とは、神の多種多様な特質――遍在、全知、慈悲、威厳――などを歌って崇めるものです。

「リーラ」とは「神の戯れ」を意味します。したがって、「リーラ サンキールタン」とは、あらゆる宗派の聖賢や予言者によって書かれた話にあるような、神のさまざまな特質の顕れを、歌って崇めるものです。

「バーヴァ」は(心の(マインド))「姿勢」です。ですから、「バーヴァ サンキールタン」とは、さまざまな関係の対象として思い描き、接した神を、歌って崇めるものです。

「ナーマ」とは「神の御名」のことであり、それゆえ「ナーマ サンキールタン」とは、神の栄光や神の御(み)業(わざ)を表わす御名、神と個々人との関係を表すさまざまな御名で神を呼ぶことによって、神を崇めることなのです。

神の御名は数え切れないほどたくさんあります。これはあらゆる言語において言えることです。わたしたちが唱え得る「一〇〇八の御名」は何組もあります。そのわけは、ヴェーダ(太古の天啓経典)に明記されているように、神には「千の頭と千の目と千の足」があるからです。帰依者は、一つひとつの神の御名を、それぞれの御名のもつ意味や重要性を理解しながら唱えることを通して、神を崇め、至福を得ることができます。


しばしばカリ ユガ〔暗黒の時代〕として非難される今の時代は、実際は人が最もたやすく解脱を得られる時代です。このことはあらゆる聖典に示されています。その理由は、そうした聖典によると、今の時代、人間は、ナーマ サンキールタンという霊性修行(サーダナ)――神の栄光を歌い、歌われた神の御名を聴くこと――によって解脱を得ることができるからなのです。信愛の九つのステップの中でも、「神の栄光を聴くこと(シュラヴァナム)」と「神の栄光を歌うこと(キールタナム)」は最高のものとして挙げられています。キールタンとは神の栄光が示されている御名の数々を歌うことであり、サンキールタンとは「大きな声で、とぎれることなく、何のためらいもなく、神の御名を歌い続ける」という意味です。

キールタンが、一人でできて、個人的な霊的成長を促すのに対して、サンキールタンはグループで行われるものです。サンキールタンは、グループのメンバーの解脱への進行を助けるのみならず、聞き手にも、さらには、聞き手の輪を超えた所にいる人々にさえも恩恵をもたらします。そして、そのバイブレーションによって全世界が恩恵にあずかることができます。

通常、サンキールタンにはそれぞれきわだった特徴をもつ四つの種類があると述べられています。それは、

(1) グナ サンキールタン

(2) リーラ サンキールタン

(3) バーヴァ サンキールタン

(4) ナーマ サンキールタン

です。では、これらについて少し詳しく見てみることにしましょう。

グナ サンキールタンとリーラ サンキールタンの特色

「グナ サンキールタン」は、神を称賛して恩寵を得るために、(歌詞において)神のグナ、すなわち属性や特質を描写して崇めることを目的とします。とはいえ、神はグナーテータ〔属性(グナ)を超越する者〕であり、浄性(サトワ)、激性(ラジャス)、鈍性(タマス)を超えています。実際には神には属性はありません。神が属性をもっていると見なすのは神の栄光を低めることになります。そのような属性は帰依者の想像の上にあるだけで、属性を所有するものとして神をたたえることは、帰依者に束の間の満足感を与えるにすぎません。

二番目は「リーラ サンキールタン」です。全宇宙は神のリーラ(戯れ)を表しています。それだけではありません。それを維持す(シュティティ)るのも消滅(ラーヤ)させるのもまた神のリーラです。いったいだれが、どうやって、これほどたくさんの神のリーラを(歌詞において)描写できるというのでしょうか? リーラはさまざまな形をとります。リーラだといって全宇宙が消えてしまうことすら考えられます! 神の意志(サンカルパ)は全権を有しています。よいことであれ悪いことであれ、起こることはすべて神のリーラです! よいことも悪いことも平静に受け留めるという姿勢が培われていないうちは、神を理解したと言い切ることはできません。現代の求道者(サーダカ)たちは、何かよいことが起きれば幸せですが、ひとたび悪いことが起こるとそれとはまったく反対の思考に陥ってしまいます。全宇宙が神の壮大なリーラであるとき、その中のほんのいくつかのリーラを取り上げて歌うことは、かえって視力の弱さを露呈するだけです。

バーヴァ サンキールタンの六つの種類

三番目は「バーヴァ サンキールタン」(神へのバクティを歌詞に表現したバジャン)です。この礼拝の道を好む帰依者は、(歌詞において)神に接する方法、神への態度、神との関係に関する、特徴的な六つの(バーヴァ:想いの)うちのどれか一つを選び、それによって成就を得ようとします。しかし、この六つはどれも不完全で、至高神に関する狭い概念に基づいたものであると言わざるを得ません。

(1) シャーンタ バーヴァ

シャーンタ バーヴァ〔安らかな思い〕は、帰依者が自分の身に何が起こっても、それを神の恩寵によるものとして喜んで耐え忍ぶことに重きを置きます。『マハーバーラタ』において、ビーシュマ〔英雄の戦士の一人〕はこのタイプの最高の模範として描かれています。しかし、ビーシュマは吉兆の日に肉体を脱ぎ捨てるという功徳を積もうとして、自らの意志の力で死期を遅らせたのでした! ビーシュマは、ウッタタラーヤナ〔太陽が北回りになる半年、日本においては春分から秋分まで〕の半年の方がより神聖であり、太陽が山羊座(やぎざ)の回帰線を横切る前に死ぬと来生に災いを招くと信じていたのです! 神は時であり、かつ、時を超越しているというのに、時に良し悪しをつける人間とはいったい何様なのでしょう! 人を待ち構えている幸福や不幸が死期に左右されることなどあり得ません。そんなふうに考えるのは神の帰依者たちの弱さの表れです。

(2) サキヤ バクティ

サキヤ バクティ〔友人の信愛〕とは神を一人の親友として愛することです。アルジュナはこのタイプの関係を通して解脱を得た者と評されています。しかし、アルジュナは友情や親近感という人間的な側面にほぼ呑(の)まれてしまっていたために、神に払うべき信心から逸(そ)れてしまいがちでした。アルジュナは神との親密さをあまりにたやすく手にしたために、自分が授かった「近さ」の意味を理解し損ねたのでした。二人はとても親しく、アルジュナはクリシュナ神を「義理の兄弟」と呼ぶほどでした。これは人間的な親近感を表しているにすぎません。そこでクリシュナは、アルジュナとクリシュナの妹のスバドラーとの結婚を企てて、〔クリシュナとアルジュナが義理の兄弟であるという〕血縁関係を追認し、親しさゆえの厳密さを欠いた表現を正当化してしまったのです! ですから、サキヤ〔友人〕という姿勢さえも完全に報いをもたらすものとはなり得ないのです。

(3) ダーシャ バクティ

三つ目のタイプの名称はダーシャ バクティ〔召し使いの信愛〕です。これは主人に対する召し使いの姿勢を強調するものです。ハヌマーン〔ラーマの帰依者の猿〕はこの信仰のタイプを体現した帰依者の典型的な例です。ハヌマーンはいついかなる時もラーマに仕えていました。ハヌマーンは、猿の姿をしてはいましたが、六十四分野の学問と四つのヴェーダの真意に精通し、六つのシャーストラを暗唱することもできました。その上、肉体的にも、精神的にも、霊的にも、恐るべき英雄でした。にもかかわらず、ハヌマーンは思いと言葉と行動において、ほんの小さな自惚(うぬぼ)れも抱くことなくラーマに仕えました。ハヌマーンはこの三つすべてにおいて純粋性に到達していたのです。

とはいえ、ハヌマーンのダーシャ バクティに欠点がなかったわけではありません。ハヌマーンの奉仕はラーマの姿をとった神への揺るぎのない絶対的なものではありましたが、ハヌマーンはクリシュナの姿をとった神や他の御名を持つ神は好まなかったのです。ヴェーダは、神は千の名を持ち千の姿をまとうことができる――と宣言しています。ハヌマーンの忠誠は一つの御名と御姿のみに限られたものでした。つまりダーシャ バクティは、普遍なる絶対者に対して偏っ(かたよ)た見方をさせてしまうのです。

(4) ヴァートゥサリヤ バクティ

四つ目のヴァートゥサリヤ バクティ〔母子の信愛〕は、霊性修行者(サーダカ)に子と母の関係をとるようにと勧めます。求道者の前に掲げられた例は、ヤショーダー〔クリシュナの養母〕が子どものクリシュナに示した愛慕です。他の人々がクリシュナを「甘美なる(マドゥラー)都(プリ)におわす神(ニヴァースィ)」と称賛し、「牧女(ゴーピー)たちの心の中(フリダヤ)におわす神(ヴァースィ)」と崇めていても、ヤショーダーは「母と子」という一つの関係しか認めていませんでした。マトゥラー〔クリシュナの生誕地〕からウッダヴァ〔クリシュナの側近〕がやって来たとき、ヤショーダーは我が子ゴーパーラ〔クリシュナの別名〕について問いました。ヤショーダーは「私は、甘美な所(マドゥラー)だの牧女(ゴーピー)たちの心の(ハート)中だのにいるクリシュナは知りません。私があなたに尋ねているのは私の息子のゴーパーラのことです」と言い張りました。このように、ヴァートゥサリヤ バクティによっても、ある一定の排他的性質に陥ってしまうのです。

(5) アヌラーガ バクティ

次のタイプの信愛はアヌラーガ バクティ〔愛執の信愛〕と呼ばれます。ブリンダーヴァンの牧女(ゴーピー)たちがこの道の信奉者の最もよい例です。心がゆがみ、偏見をもつ、好色な大勢の人々は、この道の純粋さと価値を認めません。自分たちの曲がった心の(マインド)ために、多くの人がこの道を間違って解釈し、誤った道へと行ってしまいます。狭い心や(マインド)偏屈な考えは、穀物をだめにする害虫のように、自分の人生を、そして、他の人々の人生をも台無しにしかねません。牧女(ゴーピー)たちは「愛する者」と「愛される者」両方の二元的感情をもっていました。二元性は無知によって生じます。心は(マインド)好き嫌いという二元性を生みます。誕生(ジャンマ)は行動(カルマ)の原因であり、行動(カルマ)は悲しみと喜びという二元的な反応を引き起こします。

(6) マドゥラー バクティ

マドゥラー バクティ〔甘い信愛〕が最後の道であり、ラーダーがマドゥラー バーヴァ〔甘い思い〕の無比の例です。クリシュナの御名が口にされるや否や、ラーダーは我を忘れて筆舌に尽くしがたい至福に浸りました。とはいえ、マドゥラー バクティさえも二元性を前提としているのです。

このように、「バーヴァ サンキールタン」(神への信愛の想いを歌詞にしたバジャン)にはさまざまな形がありますが、そのどれも神に関する総体的な認識を授けてはくれません。

ナーマ サンキールタンよりもすばらしいものはない

さて、四番目の形、「ナーマ サンキールタン」(歌詞が神の御名だけのバジャン)について考えてみましょう。

「ナーマ サンキールタン」は、あらゆる人々に、いつでも、どこでも、完全な幸福を与えることができます。「ナーマ サンキールタン」よりもすばらしいもの、満足を与えてくれるものはありません。

ラーマ、ハリ〔ヴィシュヌ神の別名〕、ハラ〔シヴァ神の別名〕、サイ、ババ、クリシュナ――これらの御名はどれも二音節から成っており、アートマの真髄であり核心でもあるプレーマという語から派生したものです。

プレーマ、すなわち愛は、わたしたちの思いを刺激し、言葉に浸透し、行動を促さなければなりません。

「ナーマ」〔御名〕という語には数霊学〔名前を数に変換して分析する学問〕的に重要な意味があります。

「ナ」は〇に等しく、「ア〔ー〕」は二に、そして「マ」は五に等しく、これらを全部足すと七になります。これは「ナーマ サンキールタン」を成功させるためには、シュルティ〔微分音〕、ラヤ〔テンポ〕、ラーガ〔メロディー〕、ターラ〔リズム〕、バーヴァ〔思い〕、プレーマ〔神の愛〕、サンヒター〔持続〕という七つの要素が必要であることを示しています。

この七という数字は、「七つの音(スワラ)」〈七音音階〉、「七聖仙(リシ)」、聖なる週と(サプターハ)して知られる「週の七日」に見出すことができます。

サンキールタン〔グループバジャン〕は、音、節、拍子のとり方、心構え、愛情、そして、最上の出来を達成することに重点を置いて行わなければなりません。

歌うために歌わず

サンキールタンは歌うために歌うものではありません。メロディーは、心(ハート)から出たもの、純粋な愛から出たものでなければなりません。

その愛は、それ自体が熱で(タパス)あるほどに情熱的です。そのような求道者(サーダカ)のサンキールタンは、確実にその人自身を解放し、地域、そして、世界も変えていくことでしょう。

愛の化身で(プレーマスワルーパ)ある皆さん!

たとえあなたが瞑想(ディヤーナ)やジャパ〔神の御名やマントラの復唱〕をすることができなくても、恐れることなく、信念をもって、神の御名を歌いなさい。

ダルマクシェートラ、ムンバイ

SSS Vol.15 pp.228-232 (抜粋)

疑いのないバジャン

歌(バジャン)では神の属性を描写するよりも、神の御名をたたえるようにしなさい。神の属性をたたえれば、それを疑う人も出るかもしれません。たとえば、もし神を

「慈悲の(カルナー)化身(マヤ)」

と(歌い)呼んだとしたら、病気を患っている帰依者の中には、

どうして神様は私には慈悲を示して救ってくださらないのですか?――

と尋ねてくる人がいるかもしれません。

神の戯れや偉業をたたえても同じような疑いが生じるかもしれません。

けれども、歌(歌詞)が神の御名だけに限ったもの(ナーマサンキールタン )であれば、そのような疑いが湧き起こることはありません。

SSS Vol.19 pp.194-199

ナーマサンキールタンのバジャンを一部ご紹介します