ナーマスマラナとキールタナ
サイの学生によるバジャンワークショップ
パート2
小学校4年生から10年間プッタパルティのサイスクールで学んだ学生のバジャンワークショップから抜粋してお届けします。
(2019年8月東京センター/ パート1はこちら)
四つのユガ
四つのユガとその特徴についてお話しします。
サティヤユガの時代は苦行によって神に到達することができました。この時代は善と悪は完全に分かれて別々の世界に存在していました。
トレタユガの時代は供儀(ヤグニャ)によって神に到達することができました。この時代は善と悪は別々の国に分かれて存在していました。
ドワパラユガの時代は礼拝によって神に到達することができました。善と悪は家族の中で別れて存在していました。
カリユガの時代は神の御名を唱えること(ナーマスマラナ)によって神に到達することができると言われています。この時代は善と悪は一人一人の自分の心の中に存在しています。
ナーマスマラナ
現在はカリユガの時代です。カリユガで重要とされているナーマスマラナについてお話しします。
スワミは次のように話されました。
「あるとき、一人の婦人がカウサリヤー〔ラーマの母〕のもとへやって来ました。カウサリヤーが「どなたですか?」と尋ねると、その婦人はこう答えました。「お母様! 私の息子が一跳びで海を渡ったのを御存知ありませんこと? 私はそのハヌマーンの母でございます!」
しばらくすると、別の婦人がやって来ました。その婦人は、ハヌマーンが一跳びで越えた海は自分の息子に一飲みにされたとカウサリヤーに伝えました。「私はその偉業をなしたアガスティヤの母でございます」カウサリヤーは婦人たちの言い分を笑みを浮かべて聞いていました。そしてカウサリヤーはこう言いました。「あなた方の息子が海を跳び越えたり、一息で海の水を飲んだりできたのも、ラーマチャンドラ〔ラーマの別名〕の御名がなし得たことですよ。私はそのラーマの母です」三人の婦人たちはこんな具合に話を続けていました。ことわざに「女三人寄れば空の星さえ昼間のうちに流れ落ちてしまう」とありますね!
こうして、三人の中でだれが一番偉大であるかを論議していると、ラーマがやって来て「皆さんは何を議論しておいでですか?」尋ねました。
カウサリヤーは言いました。「息子よ! ハヌマ―ンはあなたの御名を唱えたおかげで海を飛び越えることができました。あなたの恩寵によってそれができたのです」カウサリヤーは続けました。「それから、アガスティヤが海の水を一気に飲み干せたのもあなたの御名の力のおかげです。これもまたあなたの恩寵があったからこそです。私はあなたのような息子を産んだことをこの上なく幸運だと思っています」
微塵(みじん)のエゴももたないラーマは、三人の婦人に向かってこう言いました。「そうした偉業はわたしの恩寵の結果ではありません。この身体は生まれたときにラーマという名前を授かりました。彼らにそのようなすばらしい偉業を成し遂げさせたのは、その名前の力です。わたしはその名前を授かったがゆえに、あの勇猛なラーヴァナを打ち負かすことができたのです」
このように、神の御名は絶大なる力をもっています。神の御名を唱えることによって、人に潜在するあらゆる力が呼び覚まされるのです」
(1997年4月11日の御講話)
このように、神の御名は神の御姿よりも力があります。神の御名はあなたを神のところに連れて行く力があります。ですから神の御名はこの世でいちばん強い力を持っているということになるのです。
そのような理由でスワミは御講話で神の御名を唱えること(ナーマスマラナ)は重要ですとおっしゃっているのです。
キールタナ(キールタン )について
次にキールタナ(キールタン )についてお話しします。
キールタナとは、神様を讃える歌のことを意味します。
太古の昔の聖者たちは神の御名を唱えながら神に酔いしれていました。それは現代で言えば都会でお酒に酔った人が鼻歌を歌いながら歩く様子とよく似ていて、聖者たちはお酒にではなく神様の御名に酔っていたのです。
私がとても好きなスールダースという聖者がいます。
スールダースはドワパラユガの方なのですが、クリシュナの信者でいつもクリシュナの御名を唱え歌っていました。そんなある時、ひょんなことからスールダースは服を着ていない女性を一目見てしまったのです。するとその時に自分の中に欲望が芽生えてきてしまいました。その途端、スールダースは「このような欲望が一瞬でも出てきたのなら、今すぐにこの人生を終わりにしたいほどだ。私はクリシュナだけを思いクリシュナだけと一緒にいたい」と決意しました。しかし、スールダースは次にこのように思いました。「でも自分にこの目がある限りはまた良からぬものを見てしまうかもしれない。そしてまた欲望が出てきてしまうかもしれない」
みなさん、いかがでしょうか。視覚と欲望は密接な関係があります。簡単に言うと、例えばわたしの場合は美味しいお菓子を見ればそれを食べたくなります。何かを見る限りには多かれ少なかれ欲望が出てきます。スールダースはクリシュナへの信愛がとても深かったのでその場で石を拾って自分の目を潰してしまいました。スールダースはもうクリシュナ以外に何も見たくないと思ったのです。盲目になったスールダースはその後も毎日クリシュナのことだけを考えてクリシュナの御名を唱え続けていました。そんなスールダースを村人たちはからかい、いじめました。しかしスールダースはクリシュナ神に酔いしれていたのでまったく気にせずにいました。そんな彼の態度に村人たちのいじめはエスカレートして行き、とうとうスールダースを深い井戸の底に突き落としてしまったのです。
幸い、その井戸は水が枯れていたのでスールダースは溺れることはありませんでしたが、盲目のため自分がどこでどのようなことになったのか分かる術もありませんでした。スールダースはクリシュナに「助けてください」と歌い始めました。するとどこからか可愛らしい子供の声がしました。「どうしたの?どうしてそこにいるの?僕の名前はカネイヤ。あなた、大丈夫?」そう声をかけて、井戸からスールダースを引っぱり上げました。そしてとても可愛らしい声でスールダースに色々なことを話しかけました。カネイヤの声の可愛さにスールダースはとても幸せな気持ちになりました。そのうちに2人は仲良くなって、カネイヤはかくれんぼをしようとスールダースに言いました。カネイヤがどこかに隠れて自分から離れてしまうと、スールダースはとても不安で重い気持ちになりました。スールダースは隠れているカネイヤが恋しくなり、とても会いたくなってしまいました。しかし盲目の自分がどうやってカネイヤを見つけることができるでしょうか。スールダースは歌い始めました。
山を持ち上げたゴーパーラ
慈悲深いお方
どうか私に御姿を見せてください
そして、カネイヤは現れました。実はカネイヤはクリシュナ神だったのです。
これがキールタナです。キールタナは自分の神様への気持ちや祈りを歌にするものです。
(パート3に続く こちら)