双子のバジャンシンガー
ラーム&ラクシュマン ブラザーズは現在日本で歌われているヒンディーバジャンの約半分以上のバジャンを作詞作曲されました。
10代後半の頃の二人
Bro.ラクシュマン(マンディール バジャンシンガー)
サイラム。私たちの親愛なるシュリサティヤサイ、私たちの日本の家族の皆さま、兄弟姉妹の皆さま、スワミの恩寵によってこの度スワミとの何らかの体験についてお話しする機会を頂きました。どのようにしてスワミの御前に来る機会を得て、どのようにスワミがその機会を下さったのかお話しいたします。
私たちラームとラクシュマンは双子の兄弟です。
私たちは、シュリ サンギート サラスワティ シュリナーラーヤナ ベヘーラ シャストリガルの息子でした。私の父は素晴らしい古典音楽の音楽家でした。
私たちは1970年代にパルティへやってきました。
当時はインドのサティヤ サイ オーガニゼーションの各地域の州の会長が、バジャンシンガーのリストを作成し、スワミに渡しました。スワミは何人かのシンガーの名前を指さし、そのシンガーたちだけがスワミの御前で歌うことができた、そんな時代でした。そして、私たちの州会長も10人のシンガーの短いリストを持ってきました。スワミはリストを見ました。そしてラームとラクシュマンに印をつけて指さしました。
スワミのバジャンシンガーになる
ある晩のこと、私たちの州会長はスワミがラームとラクシュマンに印をつけたことを伝えました。私たちはナガラサンキールタンやマンディールで歌うことができるとのことでした。その日からというもの、私たちはプラシャーンティ バジャンシンガーになりました。1974年のことです。
その時には、ナガラ サンキールタンで歌いました。"Om sri Bhagavan Namo Namo"と、" Hey shiva Shankara nataraja"という曲です。
これは少し奇妙な事実なのですが、私たちが7年生や8年生のころにはバジャンを歌っていませんでした。9年生のころには私たちラームとラクシュマンはバジャンの一番後ろの列で歌っていました。当時、私たちよりも幼い弟や妹たちがシンガーとなっていました。私たち兄弟の方が年長だったので、「どうして幼い弟や妹たちが歌っていて、より年長の私たち兄弟や父は一番後ろで歌っているのだろう」と考えていました。私たちは二人ともスワミに祈りました。
ある日、転機が訪れました。その日は24時間のアカンダバジャンでした。私の父はスワミのバジャンが好きだったので、いつもアカンダバジャンにすべて参加していましたが、所用でどうしても席を外さなければならず、午後6:00-9:00の間だけ歌いました。私たちラームとラクシュマンもアカンダバジャンに来て、父が席を外した後に一番前の列に座ることになりました。ハーモニウムを弾く人が他にいなかったので、私はハーモニウムを演奏し、私の兄ラームもそこに居ました。 私たちは"Govinda Hare Gopala Hare"のバジャンを歌いました。このバジャンを夜9時から朝6時までの間に10回から15回くらい歌いました。
シュリ サンギート サラスワティ シュリナーラーヤナ ベヘーラ シャストリガル氏(音楽家、音楽教師のお父様)
私の父は午前4:30頃に戻って来ました。そして、父は
「誰があんなに上手にハーモニウムを弾いているのか?」
と尋ねました。誰かが、
「あなたの息子のラームとラクシュマンが演奏しているのですよ」
と教えました。父はその様子を気に入って、それからというもの、私たちに毎日サイバジャンを練習するように言いました。
私の父は音楽教師であったので、当時は何人かの生徒が音楽の練習に来ていました。私の父は私たちにそばに座っているように指示したので、音楽についてより多くのことを学ぶことができました。
その日からというもの、私たちは朝と夕方のプージャでスワミにお祈りをするようになりました。サムスタナ プージャという1時間かかるお祈りでした。朝には私が出て、夕方には兄が出ました。私たちはプージャに参加しつつ、バジャンに参加していました。
自作のバジャンをレコーディングする二人
このように私たちは祈り続け、幾つかのバジャンを製作しました。一つめはバジョバジョラーム、2つめはプラシャンティニラヤー ラーム ヘー パルティプリ バガヴァンでした。このように私たちは多くの曲を製作しました。私の父のモットーは、私たちはただ曲を作るのではなく、それをスワミの御前で歌うことによって恩寵を得るべきだというものでした。まず製作して、バジャンを歌い、それからスワミの御前で歌うのです。スワミに朝祈り、夕方に祈り、そしてバジャンを歌いました。このように1年、2年、3年が経ち、30曲のバジャンを製作しました。私たちが作った最初のガネーシャバジャンは“Jaya Jaya Jaya he Gajanana”でした。また、"Jaya ho Sai ram "、"Sai Jagan natha he sai jagan natha "・・・など、他にも多くの曲を製作しました。スワミもまた、これらの曲を非常に喜んで下さいました。これらのバジャンは今でも学生たちが歌っています。
私たちが、初めて自分たちで製作したバジャンをスワミの御前で歌うことができたのは1976年のダサラ祭でした。それは" Bhajo Bhajo Ram Jaya Sai Ram"というバジャンでした。
スワミと記念撮影(右上の端が二人)
スワミの試練
80年代のことでした。時にはスワミは帰依者をお試しになられました。彼は時々、私たちに試練を与えようとなされます。
いつも私たちがプラシャンティニラヤムに来ると、スワミに
「スワミ、私たちは歌いたいのですが」とテルグ語で尋ねました。すると、スワミは
「そうですが、OKです。ラーマ クリシュナ プラブトゥかジェイ ジェイ グルデーヴァを歌いなさい」
と、よくおっしゃいました。
1980年代にもちょっとした体験がありました。時々私たちはスワミがくださる体験により、ちょっと要領を得ないことを体験し、それによって私たちはもっと努力するようになります。彼は私たちが喜ぶことをお与えになったり、ときには試練をお与えになったりなされます。
1988年の朝のダルシャンでのことですが、私たちがスワミに、歌っても良いかどうかを前もって尋ね、既に私たちはバジャンを用意してベランダに座り、バジャンホールへ入るのを待っていました。一人のセヴァダルがやってきて、私たちにカード(許可証)を持っているかどうかを尋ねました。私たちはカードは何も持っていないと答えました。私たちはつい先ほどスワミに許可をお願いし、スワミは私たちに許可をお与えになりました。ただ、その許可は私たちとスワミの間だけのものでした。セヴァダルは、
「あなた方はここに座ることはできず、中に入ることはできません」と言いました。
私たちは泣き始めました。
バジャンは50分以内に始まる予定でした。スワミは歩き回り始め、女性側にいらっしゃいました。40分後に同じセヴァダルがやってきました。
「あなた方はラームとラクシュマンですね。大変申し訳ありませんでした。ファーストラインへお越しください。」
そして学生がハーモニウムを渡してくれました。私たちが歌い始めると、まさにその瞬間にスワミが出てこられ、微笑まれました。私たちはすべてを忘れていました。私たちはラーマ クリシュナ プラブ トゥのバジャンを歌い始めました。この曲を歌うとスワミは私たちが歌っているところのすぐそばにお越しになりました。
私たちが来た時にはいつでも学生たちが私たちにハーモニウムを渡してくれました。ハーモニウムを演奏できることは神からの贈り物であり、子供の頃から私はハーモニウムを演奏していました。そして、この手は神からの贈り物のために使われてきたのです。朝には、スワミは私たちが泣かなければならないような状況を作り出されました。そして夕方、私は歌っていました。
私がバジャンホールでジャヤ デヴィ バヴァーニーマーを歌っていたとき、スワミが一人の学生に誰がバジャンを歌っているのかを尋ねられました。その学生は従順に、
「ラームとラクシュマンが歌っています」と答えました。するとスワミは学生に、ラームとラクシュマンはバジャンを正しく上手に歌っているかどうか尋ねました。そしてスワミは、彼らは上手に歌っていると付け加えられました。その後で学生たちが私たちのところへ来て、スワミが私たちのことについてお尋ねになっていたことを伝えてくれました。
朝には私たちは慰めることさえできないほど泣いていましたが、夕方にはスワミは私たちのことをお尋ねになっていました。この小さなこと自体が私たちにとっては大いなる祝福でした。このようなことは私たちすべての帰依者が体験することができます。私たちがスワミに心から祈れば、スワミは必ず私たちの願いや想いに報いてくださいます。もしあなたが真心からスワミに歌い、あなたが私たちにとってすべてであると言うなら、スワミは願いをかなえるでしょう。スワミは、朝には私たちが泣くような状況を作り出され、夕方には、私たちが今も記憶しているような別の状況を作りだされました。
1977年に私たちはスワミの夏期講習に参加しました。その7日後、私は病気になりました。さらに7日経って、体温が非常に上がっていました。私は、ブリンダーヴァンで、この滅びゆく肉体を去ることになるのではないかと思っていたほどでした。私は病気のため非常にやせ細り、私の兄がスワミに手紙を書きました。
「バガヴァン、慈悲をお与えください。バガヴァン、恩寵をお与え下さい」
夏期講習が終わったあとでスワミが来られ、学生たちが座っていました。兄がその手紙を持っていきました。その大きな集まりの中で、スワミは直接兄のところへ来てこのようにおっしゃいました。
スワミ:おお、オリッサ(彼らの実家の州の名前)、おお、ブランマプール(実家の街の名前)、おお、ラームとラクシュマン。
兄:はい、スワミ
スワミ:どうかしましたか?
兄:私の弟ラクシュマンが熱病にかかっていて、熱が103-104度あります(華氏)
スワミ:おお、そんなことはありません。彼は元気です。行きなさい。
そしてスワミパダナマスカールを与え、手紙を受け取られました。
兄が部屋に戻ってきたとき、私の体温は105度になっていました。スワミは3人の医者を派遣され、私を救護室に連れていき、何かの処置が行われました。
7日経っても私の熱は下がりませんでした。嘔吐もしていました。スワミは私の健康状態に関して、占星術チャートを作成しました。スワミは私がどうしていたのかを兄に尋ねました。スワミはいつも私のことを心配して下さいました。当時、カルニャナンダ スワミという方が居て、スワミのためにあらゆるお世話をしていました。スワミはおっしゃいました。
「医者たちはどうしてラクシュマンの世話をしていないのか?」
兄ラームがバジャンを歌いました。その後、スワミは兄ラームに弟ラクシュマンに会いに行くようにとおっしゃいました。
ある日、スワミが私のところにやって来られました。彼は二つのカプセルとヴィブーティを物質化されました。スワミは医者たちに、どのようにラクシュマンの治療をしていたのか尋ねました。するとスワミはこう言われました。
「ラクシュマンは腸チフスにかかっているのに、お前たちはマラリアの治療をしていたのだ」
その日から彼らは腸チフスの治療を始めました。私が回復してマンディールに行くと、スワミが衣服と本を下さいました。そして私たちを学生たちに紹介し、
「彼らはオリッサから来たラームとラクシュマンで、とても良いシンガーたちです。彼らはブランマプールから来たとても優れたシンガーです」とおっしゃいました。
現在の二人。中央は息子のスマラン氏
100回練習の日々
その日からずっと私たちはバジャンの練習とバジャンの製作を続けています。そして今も練習し続けています。
Please practice one song 100 times. As a singer we used to practice 100 times.
どうか一つの曲を100回練習して下さい。シンガーとして、私たちは100回練習してきました。
あなたが歌う曲の一語一語を感じて下さい。歌っている間、一語一語への想いが表現されるべきです。
初めて私がバジャンを歌ったとき、私の父は一つのバジャンを1年間練習するように言いました。私はこのバジャンを一年間練習しました。そのバジャンはラーマ ラーマ サイラーマです。
私たちは感情とともに歌うべきです。私たちはそれほど多くの感情を持たずに歌いがちです。
しかし、このようであるべきではありません。そして、言葉と音階は正しくなければなりません。私たちはそれらを完全なものにするために100回練習しなければなりません。私たちはそれをスワミに捧げなければならないのです。
例えば、ラーマクリシュナプラブトゥのバジャンの場合、例えば、イエシュ ピタ ブラブトゥの行では、イエスキリストが感じた痛みのことを思うべきです。
もし私たちが練習してからバジャンを歌うなら、それを聴いた帰依者たちも幸せになります。そして、帰依者たちが幸せなら、スワミもまた幸せなのです。(完)
2015年5月 プラシャーンティ ニラヤム サットサングホールにて
Bro.ラーム&ラクシュマン ブラザーズが作詞作曲されたバジャンのいくつかをご紹介します。ジャヤ サイグルデーヴァー、デヴィ バヴァーニー マー、ジャヤ デヴィ バヴァー ニー マー、プラシャーンティニラヤーラーム、サイナータ バガヴァン、ラーマ クリシュナプラブ トゥ、ジェイ ジェイ グルデーヴァ、ナモー バガヴァテー バースデーヴァーヤ、ジャヤ グル ジャヤ グル サイラーム、パティータパーヴァナラーム、サイババ オオ サイババ…など、このほかにも多数あり、学生たちによって歌い継がれています。(文中の曲名にアンダーラインが付いている箇所はクリックで曲の動画に飛びます)